瑞泉寺の彫刻


雲水一疋龍(大門)

 瑞泉寺は、天正9年・宝暦12年・明治12年と三度大きな火災にあって(伽藍)建物が焼失しております。越中の一向一揆の中心的寺院であった瑞泉寺も、天正9年(1581)に佐々成政によって焼き討ちにあい焼亡し、江戸時代に入り寛永19年(1642)に再建され、宝暦12(1762)3月に再び火災にあいます。

 翌年から再建が開始されますが、京都の本願寺より再建のために、東本願寺の創立以来、代々本山お抱え大工の棟梁を務めてきた笠井若狭守が見聞に訪れ設計図面などを作成し、同じく配下のお抱え肝煎大工のひとりであった柴田新八郎など多くの職人が直接の再建と指導のために派遣されたと思われます。柴田新八郎は10年あまり井波に住まいして本堂などの再建を進めました。安永7年(1774)に17間四方の本堂完成させた後、大門(山門)の再建に取り掛かります。ところが天明8年(1788)正月に京都の東本願寺が火災にあってしまいます。そこでその再建のために多くの職人達と共に井波を離れて京都に戻ります。

 そのあと、瑞泉寺の再建を引き継いだのが、柴田清右衛門、番匠屋七左衛門、松井角平などの地元の大工達でした。彼らは台所・式台門などを次々と完成させてゆき、今日に残る大門は文化6年(1809)頃にほぼ完成したと思われます。

 再建に当たっては、彫刻を得意とする多くの大工・職人が関わっておりました。その内山門正面の「波に龍」の彫刻は、京都彫刻師の前川三四郎に依頼し、京都か運ばれてきたと言われます。そのほか、中国の八仙(大門正面より左手前から奥へ琴高・伯牙・鉄拐・蝦蟇仙人、右手前から奥へ呂洞賓・簫基・張果・平黄初)と呼ばれる八人の仙人の彫刻などは井波の彫刻師の手によるものです。このように、今日迄連綿として続く井波彫刻は、京都の優れた伝統的な寺院建築や寺院彫刻に学んだ技術と、瑞泉寺再建などで培ってきた井波大工の技術との調和・融合によって生み出されたと考えられます。

 たとえば、寛政4年(1792)に柴田清右衛門が再建した式台門(勅使門または通称菊の門)の両脇板には番匠屋北村(田村)七左衛門が施した「獅子の子落とし」、蛙股には莫、虹梁には松に鶴が彫られている。先の子落としの彫刻に関しての図が残り、当初は鯉の滝登りと子落としであったようです。この式台門は桁行約3.7㍍、梁間約2.5㍍で唐破風造りで、昭和5年(1930)にこけら葺きから銅板葺きに改められ、平成17年(2005)に屋根周りほか修復が行われました。

 こうして再建された瑞泉寺ですが、明治12年(1879)9月三度目の火災によって、大門から太鼓楼までの正面の建物を残して多くの建物を失います。やがて、明治18年に4代目の松井角平が棟梁となり、短期間で桁行40.1㍍・梁間39.7㍍の巨大な本堂を再建します。

獅子の子落とし(勅使門)

唐狭間迦陵頻伽(本堂中央)

 本堂正面の唐狭間(欄間)の彫刻はまさに浄土の荘厳を描写する「阿弥陀経」にも登場し、仏の声にたとえられ、比べようのない美声持ち、お浄土そのものを示すという、迦陵頻伽の姿があります(『万華鏡』天上絵より)。 しかしながら、正面階段上の向拝手挟の彫刻などについては、アジア太平洋戦争後のものもあるといわれます。

 弘化4年(1847)に上棟式を挙げた太子堂も明治12年に焼失し、その再建は5代目松井角平が引き継ぎ、大正7年(1911)に完成させます。太子堂は桁行24.7㍍、梁間27㍍一重裳階付入母屋造です。ここの向拝の木鼻・手挟など等をはじめ多くの彫刻は田村(岩倉)理七など井波の彫刻師たちの力強い作品です。かれらは、同時に東本願寺の再建に関わりその彫刻にも腕をふるいました。続いて、昭和7年には鐘楼(桁行5.1㍍・梁間4.6㍍)が、同9年にの二階建て式台を持つ瑞泉会館(桁行25.5㍍・梁間19.1㍍)がそれぞれ作られています。こうして、瑞泉寺の再建と共に伝承・発展してきた井波地域の彫刻の技術は、今日の伝統的な工芸作家や職人・技術者に脈々と受け継がれてきています。