瑞泉寺の歴史

 井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出られたと伝えられております。

 綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認(したた)める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていきます。

 15世紀末には、井波城と称しました。福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として発展します。16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。その後城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。

 現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも有数の建物です。井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて再建されました。棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものです。